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三木の金物産業

三木の伝統工芸品

播州三木打刃物(通産大臣指定伝統的工芸品)

日本で最初の金物のまちと言われる兵庫県三木市

その起源は今から1,500年も昔、5世紀の中頃のことです。この地方の大和鍛冶と百済からの技術集団である韓鍛冶とが技術を交流し鍛冶を行なったのが始まりでした。これらの熟練した鍛冶職人の手づくりの技法によって、鋸、鑿、鉋、鏝、小刀などの優れた製品づくりが現代まで受け継がれ、通商産業大臣の指定する「伝統的工芸品」に平成8年4月8日指定を受けました。

伝統的な大工道具、左官道具をはじめ多種多様な金物製品を生産する我国屈指の金物特産地として、日夜、職人の研ぎ澄まされた技・術・技法を駆使して、魅力ある商品づくりに取り組んでおります。

秀吉の三木城攻めが金物のまちへのきっかけ

三木市といえば古くから大工道具としての打刃物のまちとして知られている。 欽明天皇の538年に百済の聖明王が仏像と経論を贈り、日本に仏教が伝来した。

その頃、聖明王の王子恵も一団を引き連れて明石の浦に到着、仏教と文化の理想郷をつくるために丹生山(現神戸市北区)に落ち着いて明要寺を創建した。同行の技術集団は韓鍛冶をはじめとするいろいろなすぐれた技術を地元の人に伝えたという。

 また、平安初期には、日原大工と呼ばれる宮大工が美嚢郡吉川町に居て、全国の大工の連梁として京都などの有名社寺を手がけ、代々従五位を賜った。かつて三木市と同じ美嚢郡内にあった神戸市北区の淡河町や、吉川町には鍛冶屋谷池、金鋳場、吹き屋、金堀滝などの地名がある。
応任の乱のあと、東播八郡二十四万石を与られた別所則治の居城三木城の城下町として栄えた三木のまちだけに刀鍛冶や野道具鍛冶として優秀な技術は受け継がれてきたのだろう。

だが、三木市が現在のような全国屈指の金物のまちとして栄えるきっかけとなったのは羽柴筑前守秀吉の三木城攻めであった。

天正8年1月、秀吉の兵糧攻めで破れた三木城主別所長治は自刃した。戦火で焼失した社寺や町並みを復興させるために、免租の制礼を立てて四散した町民を呼び出す戦後処理の政策を実施したのが秀吉であった。中国攻めの拠点として三木城を使いたかったためであったが黒田官兵衛の反対で姫路に移った。

以後、町復興のために大工職人が集まり、鍛冶職も数を増やしていく。復興が一段落すると大工職人の仕事が無くなり近畿一円に出稼ぎに行くようになるが、この時に持参した道具のすばらしさが評判であった。

大工が出稼ぎのついでに行商をしていたのが、鍛冶職人の数を増やす結果となり、宝暦年間(1751~1764)には原料の仕入れと販売のための仲介人が誕生、これが発展して寛政年間には5軒の問屋ができている。大坂だけにとどまらず、享和4年(1804)には江戸との取引も始まっている。

幕末の頃、阿波(徳島)の行商人が、三木の金物に目をつけて、現金のほしい盆暮れにやって来ては、買い叩いて、これを全国を股に掛けて売りさばいた。

これに刺激を受けた三木の問屋も座商から行商に転じ、明治から大正への鉄道の発達により全国に得意先を持つことになった。

伝産の指定を受ける

かつて、まちの路地裏に職場を持った鍛冶職人も戦後の機械化とともに、騒音公害と騒がれ、周辺に移って町工場となる。昭和42年には事業の共同化などによる生産性の向上や工場・倉庫など狭隘または分散などによる生産性の向上を目的とした三木金属工業センターが別所町高木に、53年には別所町巴に県立の三木工場公園が完成し、成長した地元企業が誘致とともに入居した。 

一方では、卸問屋から商社へとイメージチェンジした金物卸商たちも55年には大村に金物卸商業団地をつくった。そのような中で建築工法の変化による需要の減退や後継者難によって廃業を余儀なくされた鍛冶職人もいたが伝統工法を基本に、鋸、鑿、鉋、小刀、鏝をつくり続ける鍛冶屋も多く、念願の伝統的産業工芸品の指定が受けられることになった。伝統工法を守るため、上の丸金物神社鍛錬場で、毎月第一日曜日の朝に業種別の古式鍛練を続けている。 

いま、三木の金物業界は伝統鍛冶と、近代工場での大量生産化、新しい工具づくり等に分かれながら業界の発展には心をひとつしている。
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